朝ノオト

空想に遊ぶ

Sunny

 ふわっと心地いいロマンチックが頭に浮かんできたとき、その宛先がなかったとき、どうすればいいのだろう。僕の一部でできた感情は僕ひとりを一瞬、幸せな気分にさせた後、一体どこに行ってしまうのか。見えなくなるまで広がって積もっていくのを惜しむのはとても自然なことで、行方のない優しさは執着に過ぎないというのはあまりに寂しすぎると思うよ。出来心でだって人に優しくありたい。できればみんなの見ていないところで、ロマンチックが壊れないような静かな場所でそっと誰かに渡すことを、その人を愛するってことにしたいな。

 美しいものを見て誰かを思い出したり、忘れてしまっただろうけれど、いつか言っていた言葉で強くなってしまったり、そういうことを勝手にしてしまうの、ちょっと気持ち悪いけれど、これも愛だと思っているよ。コンビニで買ってきたなぜか一リットルの飲むヨーグルトを楽しそうに飲み干して帰ったあの子を思い出すと今でも楽しい気分になれる。

 そんな不確かで勝手な感覚を認め合って喜び合える人を見つけることがきっと人の幸せの1つに違いないけれど、もっとさりげなく人の間を行き交っても愛の価値はちっとも変わらないはずだ。地球の表面にありふれたって、素敵なもんは素敵なんだ。需要や供給なんて言葉じゃ届かないところがあるって気持ちは、きっと人間が譲っちゃいけないものだ。

 賢くなったつもり、は楽しくないので、できればやめたほうがいいと最近、思っている。賢明な感じがするので、色々押さえ込んでみたりするのとかね。行儀がよく見えたり品がよく見えたりするものが全てそのままの輝きではなくて、我慢大会の中の入り組んだ文脈からやっと見える程度のもので、普通に生きている人はもっとおおらかにやってやればいい。ちょうど小学生が縁石の上をいつまで歩いてられるか競っているみたいな世界があって、歩道の真ん中はガラッと空いていたりする。悠々と鼻歌交じりに歩いてもきっとつまずく事はないはずの道があると思うよ。

 自分の楽しさは、遊びは自分で決めなきゃいけないのは確かだ。自分で決めたのなら、たとえば自分以外の面白い人の後ろをついて歩くのが楽しいのなら、それが素敵な遊びであって命には似合う。よくわからない我慢比べや、体裁上の高尚さに、遊びを託してしまうのは面白くない。知らない人に声をかけないことが美徳だと言われても、そんなもんじゃときめかない。鏡を見たときに、汗まみれで歪んでいようと、笑顔が溢れすぎて不細工になっていようと、楽しい顔ができるかどうかは、単純で、大事なことだと思うんだ。

 世界をまるごと包んじゃいそうな、喜びを歌うとき、疲れてしまって目もくれずに通り過ぎてゆく人を呪ってしまってはいないか。鏡に映る自分を苛んではいないか。高架橋の下で折り鶴を集める人を見て思った。

 愛だとかそんな、目に見えずに人に及ぶ、もしかすると気持ちの悪いかもしれないものは、こんな晴れた日に、せめて喜びの中でこそ扱えるといいね。