朝ノオト

空想に遊ぶ

物語られないことはそもそも存在しないかもしれないから話そう

「白子!白子って知ってる?超レアなタケノコが!昨日掘れたから明日食わしてやる!」

街も学校も、あるいはデートのひと時も迷彩柄に身を包む友人が、駆け寄ってきてなんだかとても珍しいタケノコのことを言ってきた。普段はタケノコのことを特に考えないし、今後も考えることもないであろう。僕はそれでも、春から始まるひと月ほどのタケノコのシーズンでほんの2、3本しか採れない、白子なる存在を熱く語られ、元々白っぽいタケノコの中でも白子と呼ばれるほどの白さに想いを馳せたし、刺身でも食べられるほど良質で新鮮なその食感を想像した。「タケノコのことなんて知らねえよ」と言いたくなる気もする、彼のエネルギッシュな報告は、そんなタケノコをめぐる思考を確かに引き起こした。

僕はどうでもいいことやその場での思いつきのことをすぐ口に出してしまうし、饒舌な人間で、話しすぎる軽薄さに落ち込んでしまうことさえあるのだけれど、ゆっくり考えた結果、頭の中にやっと見えるようになった思いや考えを話すことは得意でない。

例えば見たかった映画に行った帰り道は、仲のいい友人と途中寄ったりする喫茶店で、いい映画だったね、とかそんな一言だけを共有するのがちょうど良いと思っている。

自分が何かを見たとき、良いと思ったとき、それが心の微妙な部分に触れたとき、その価値みたいなものは、ものすごく淡くて壊れやすいものであることがはっきりとわかる。誰かを前にして、その人の表情や、口の渇き、思いつく言葉、そういうのを気にしながらでは、とてもとても、掴みきれない感情だから、むやみに話して、繊細な部分を壊すのを恐れて、そっとしまって忘れてしまう。そのくせ時には気になって、誰かにそれが見過ごされたり、傷つけられてしまうことを眺めたりする。

ハッキリしていない素晴らしさ、心に触れて止まない感情はしかし、語られなければ、そもそも存在しないことにされてしまったりする。

デザインやアートのような恣意的にそれをわかりやすく見せている表現みたいに、十分に説明がなされて、多くの人が共有する価値が、世界のはたくさんあって、説明された方が、共感しやすいという当たり前すぎる理屈のもとで、より強い価値になる。言葉が尽くされた強い価値が溢れる中だから、遠くから「どうか無事で壊れませんように」なんて祈っているだけのロマンティックな感情はすぐに埋もれる。

語り尽くすことができないものであっても、力を尽くして言葉を練って、構成を練って、誰かの心を揺らすのに必要な要素、時にはそれが映像であったり、ワークショップであったり、一本のアコギだったりするものを準備したのちに語ることをすれば、誰にもかけられなかった熱量を持って語られれば、誰しも感じたことのある曖昧な価値の、その端っこくらいは伝えることができる。手がかりさえあれば、人は感じることや想像することができる。最初に誰かが、そのエネルギーを発揮できるかが大切だ。

昨日行った講演会で、幽体離脱を経験することで、死の恐怖を和らげる暴露療法のようなアプローチのインスタレーションを見た。(詳しくFrank Kolkmanさんのサイトで)

それは自分の後ろ姿を見ている感覚を、カメラやマイクで再現してVRゴーグルで体験するするというシンプルなものであるので、説明がなければその意味はよく分からない映像だったりする。

しかし、終末医療の実際や人の死への恐怖をめぐる膨大なリサーチを適切に並べて、例えば心理学では暴露療法と呼ばれる、恐怖の要因に少しずつ触れることで慣れさせていく手法があることを述べ、抗いようもなく死を迎える人間の逃れようもない最期を、せめて恐怖に染められず、より充実させるための手法としての臨死体験を説明された後であれば、VRゴーグルに映される自身の後ろ姿に重大な意味が見えてくる。

適切に構成されたストーリーの中では到底触れられなかった、モチベーションや問題意識、熱意、興味があるに違いない。それでも、なんとか形作った、物語った言葉は、ある価値の輪郭に及んでいた。そのことがとても重要だと思った。

もしかすれば誰も気がつかないかもしれないけれど、大切なこと、素晴らしいことは、大体誰も気づかない。正確には、誰もエネルギーを使って言葉にはしないので、誰にも共有されず、共有されないものは社会に存在しない。誰かの心の中にたまに浮かんできては消えてしまう性質のもので、多くの場合、気づかない人たちによって踏み潰される。

素敵なあれこれを守ろうだなんて大層な心意気でなくとも、人はそれを物語るべきなのだと思う。最初に気づくけなくとも共感できる価値は多くて、共感された価値は減ることなく、ただ広がってゆく。つまり物語ることは、ある価値を創造することである。人は物語るべきだ。自分が見つけた価値を、生み出した価値を、誰かに手渡す覚悟を、喜びを、意味を知るべきだと思う。

僕は今、件の友人の山仕事の手伝いを終え、タケノコづくしのお昼ごはんで一息ついた帰り道にいる。揺れる電車でまどろみながらも、あの時、タケノコタケノコまくし立てていた友人と白子の刺身を思い出し、物語ることの意味がわかった気がしている。