朝ノオト

空想に遊ぶ

日曜朝のエトセトラ

日曜日、というよりも日曜朝の予定というのは恐ろしいもので、キリスト教で言うところの休息日にもまるで構わず、無慈悲にも惰眠との決別を迫り来る厄介なやつであり、加えて恐ろしいのは、僕の目覚ましは日曜日にだけは鳴らない設定にしてあるということである。日曜朝にアンパンマンプリキュア仮面ライダーを嗜む趣味がないもので、たまの日曜日くらいはゆっくり眠れば良いという、平日に生きていた自分自身からのなんとも粋な計らいである。

自作自演の優しさに気づいた、いや思い出したのはつい1時間ほど前、布団の中でパッと目覚めた時であったので報われない。従来、僕は自然に目がさめるまで寝ると午後になっているタイプの人間である。9:30から始まる予定は絶望的かと、しかし早寝の効能も無視はできないなどと、手遅れの問答を高速で繰りながら枕元のiPhoneで時刻を確認する。

7:23

おおジーザス。神様仏様ありがとう。

やり場なく溢れ出てくる喜びと感謝を、手当たり次第に振りまいた。

そんなこんなあって、目覚ましをセットしなくとも、もうこの時間には電車に乗れていることが嬉しすぎて、今朝は良い調子だ。ここ2、3週間は慌ただしく動き回っていたので、やっとその反復の意味を感じた。反復の末に得られるオートマチックな感覚、当たり前というのは大変に心地が良い。努力して、頑張ってやっと得られる早起きが今やこんな気軽に手に入るのである。疲れないし、想像力もイキイキしている。

いつも通りマシンでコーヒーを淹れながら歯を磨き、コンタクトを入れたら、シリアルにナッツを混ぜて食べる。身支度をしながらも、今日することのイメージが湧いてきている。リラックスとはむしろこのようなルールと反復の中にこそあると思えてくる。

とはいえそれ故に、反復について語られることは少ないことも確かである。

自身がいかにリラックスしているかとか、あるいは自分にとっての当たり前についてはどういうわけか人は語ることをしない。そういうものはたいてい、どこかの他人によって発見されるもので、インタビューのような方法の中で生まれることが多い。お酒の席で浮かび上がってくるものもあるけれども、こういう席では不思議て人は理想を熱く語りがちであるので、やはり素面の人間同士が、できるだけ平時に触れ合う場合に多い。

例えば、今、僕はもたれかかって、向こう側へと流れて収束してゆく線路を眺めて、少しだけ良い気分になっている。同じ景色を眺める車掌さんも見える。何度も何度もなんども、同じ景色を見てきた彼には、僕がこの流れてゆく景色に感じる寂しさと清々しさについてサラリと言えるのかもしれないと思う。

日曜朝の電車にはいろいろな人々が黙々と過ごしている。朝日を背に、手鏡で髪を整えるお姉さん、参考書に食い入る男子高校生、スマホを操作する女性とその隣で車窓を眺め続けるおじいさん。そんな人々を見回している車掌さんもやはり居る。

この人たち全てに毎日の反復があり、当たり前があって、きっとリラックスがある。そういうものの話を誰かとしてみたいなと、朝の電車で僕はいつもよりも人懐っこくなっていた。