朝ノオト

空想に遊ぶ

「チリ」から始まる名前考

漆喰なり土なりが室内の壁に塗り回されていく。コテの動きはやがて部屋の柱にまで及んで、一部だけがピロっと、すっかり塗られてしまった一面の壁から飛び出して見える。

これが日本の建築用語で言うところの「散り(チリ)」と呼ばれるものである。

このように柱が露出される形の壁の仕上げのことを、「真壁」と言い、柱の出っ張り、つまり散りのない形で壁で覆われる仕上げのことを「大壁」と言うのだけれど、こんな日本語を覚える必要は別になくて、こんなものにも名前があるということが大事なのである。

適当で申し訳ないのだけれど、以前、人の創造的営みとは命名することである、とかいうのを読んだことがあって、折に触れてその曖昧すぎる断片を思い出す。名前をつけるという行為の持つ意味について、名前の有る無しについて、ある物事がの呼ばれ方について、考えるたびに、命名の裏に広がる世界について心惹かれる。

そもそも名前がない物事というのは議論されない、噂されない、考えられない。共有されるものしか存在しない世界において共通の記号であるところの名前を得ることは、存在を得ることに等しいのだと思う。

昔タイトルについての記事を書いたことがあるけれど、ここでいう名前の話は、その名前にエッセンスを凝縮させながらもキャッチーにするためのものではなく、問題はもっと素朴なところにあって、共通であり独自の呼ばれ方を持つかどうかこそがここでは大切なことだ。あれとか、それではいけない。

「チリ」に話を戻すと、このチリと呼ばれる 左官仕事の末に現れる柱の姿というのは、日本建築の空間の質を決定するほど、繊細な仕事がなされるべき場所であって、それ故に名前が与えられ、職人によって、あるいは設計者によって議論されてきた。きちんと隅の出ているチリによって空間が締まる場合や、日本の茶室建築の最高峰ともいうべき妙喜庵の待庵に見られるように、あえて床の間のチリを隠すことで、空間に無限の奥行きを持たせるなどという趣向が凝らされる場合もある。

技術的にも左官の世界ではチリ周りというのは、収縮する土と柱の特性もあって特別の配慮がなされるので、チリを綺麗に塗るための専用の道具や技法が存在している。「チリ」が一つの独立した名前を持って人間に考えられる時、それに付随してチリ周りにまつわる一つの世界が生み出される。

僕が殊、「名前」について、興味深く思うのは、塗られた壁から柱などの部材がはみ出た部分が「チリ」と呼ばれることが、それとして個別に認識されること以上に、「チリ」という短い言葉に短縮されて呼びやすくなったこと、考えやすくなったことそれ自体である。つまり時間とエネルギーの座標軸に興味がある。

楽であることは、軽んじられる割にとても重要である。人間がある一定の時間の中に考えられることはそんなに多くはなくて、例えば「チリ」のことを考える時、わざわざ脳みその中で、先ほどのように、「塗られた壁から柱などの部材がはみ出た部分」などと考えていては、それだけでいっぱいいっぱいになってしまう。そんな時でも、「チリ」という2文字に色々と込められたら随分と楽チンだ。この楽チンというのが面白い。

脳みその出来がそれなりである間は、時間とエネルギーの軸を受け入れることが必要だ。このことを受け入れた時、世界は少し広がる。長々しいことを「チリ」と呼ぶことにするだけで、限られた時間とエネルギーを使ってもっと深い世界のことを考えることができる。

名前をつけることは楽をするために変換をすること、ある物事についてのいろいろをすぐに思い出せるようにすることなのだと思う。もっとロマンティクな言い方をすれば、多くのものが溢れる世界で、その物事をすぐに思い出せるように、考えられるようにするためのおまじない、祈りだ。

そこに特別な思い入れがあるかどうかは別として、名前があるということには、それを呼びやすくした人々がいたという事実に思いを馳せてみると面白いのかもしれない。人は昔から、呼び方一つからして楽をしようとしてきたのだから、楽である、気軽であることは人にとって本当に大事なことであって、それ故に親しまれるためには欠かせない原理なのかもしれない。

とかく、今日は「チリ」という言葉を思い出して、はしゃいでつい名前について長々と考えてしまった。職人さんたちがどうして仕上げの重要な箇所のことを塵、つまりゴミみたいな響きで呼んだのかはついに分からずじまいであったけれど、毎日そう呼び続ける人にとってはそんなことどうでもよかったのだと思う。自分にとって大切なものに、名前があれば、世界が生まれる。それで十分だ。