朝ノオト

空想に遊ぶ

人生トレーニーor NOT

最近はうまく過ごすことができずにズルズルとやらなければいけないことを引きずったままいたせいで、今朝は寝不足だ。アンパンマンというよりホラーマンである、もはや山口一郎ばりの頰をしている。と思って検索をかけたが、僕の頰の闇では到底、太刀打ちできるものではなかったので、さしずめ疲れた劇団ひとりであった。

「難しい本をたくさん読む」というわかりやすく学問らしいことをしていたのでアウトプットよりもインプットの方が多い日々だったといえ、レポートやら研究計画書なんかでそれなりの量を書いてはいた。しかし、日課のように書いていた日記が滞っていてもどかしかった。論理的に構成することと、気分に任せて書きまくることは、当然ながらまるで異なる。何時間もかけて書きあげた2000字のレポートを見ながら、日記なら1時間だったななどとつい思ってしまう。しかも、その2つの文章の価値の間には大きな違いを見出せないので、悩ましい。どっちもおんなじくらい楽しい。

まぶたの重い今朝、とにかく思うのは、この歳にもなって睡眠や、やりたいことをする時間を確保するのもおぼつかないのが大変にダサい。やらなければいけないことにはかなり多くの時間を要するし、それをやるには気力も体力も使うけれど、1日の24時間というのはそんなに短くはないというのも知っている。案外サクサクやればガッツリ寝ても、やりたいことやっても、できてしまうし、眠たいままダラっとこなしても24時間はちゃんと過ぎる。

どうやら僕には、いろんなことを切り詰めて、尖ることのできる才能がないみたいだ。逆に、切り詰めるとその分、普通にすり減る。

当たり前過ぎることを言っているけれど、これを認めるのは案外難しく、センチメンタルな感情が伴う。誰だって、ナポレオンが1日2時間睡眠で、私に不可能な事などない!とか言いながらやっていたことを凄いと思うし、(昼寝しまくっていたとはいえ)できるものなら良いなと憧れる。体力や気力といった当然過ぎる与条件を超越するパッションというのには夢がある。そんな夢を捨てるとき、自分が凡人であることを認める時、多少はおセンチな気持ちになるのは仕方のないことだと思う。

とはいえ、僕はそんな夢の甘美さよりも、寝不足や欲求不満の辛さの方が切実に響くので、水木しげる先生のごとく、ぐっすり寝るのである。

満たされない思いを抱えながら、あるいは、十分でないコンディションのまま日々を過ごすのは、重りをつけて運動するのに似ていて、本来伴わない負荷をかけているので、日々のハード差はグッと高まりそれ故に、疲労と達成感もグッとなっているように感じられる。うわあ、こんなに頑張っちゃたよ、なんて思いながら、普段なら1時間の仕事に数時間かけることだってできるし、おそらく当人が人生を修行として考えているのであれば、非常に充実したトレーニング効果が得られているのだと思う。

ところが「生きることは平素から辛いことであり、その中でいかにリラックスして、やりたいことをやっていくかが大事だなー」と思いながら、先ほどの件をみると、当然様子がおかしい。限られた時間の中で効率よくやっている人の中で、なぜか重りをつけてやっているなんだかストイックなトレーニーが混じっている。知っているぞ、その状態だともはや改札に定期券を通す作業だってすごくチャレンジングだ。今朝の僕は失敗して、後ろのおじさんに舌打ちされた。当然過ぎる反応だと思った。

僕は友達とテニスをすることがあるのだけれど、彼は練習のためだと言ってウェイトを両手足首につけてコートを駆け回っている。当然ながら動きが鈍くなって、もともと下手くそなテニスの腕はもはや壊滅的なレベルになって、それはそれで見ていて楽しいのだけれど、まあ練習にはならない。

なんだかこの状況に似ているなと、一度考えてしまったが最後、袖の内側からチラッと見えるパワーウェイトが、もしも自分の袖から顔を覗かしているかもしれないと思うと、今朝の自分はダサく思えて仕方ないのである。まさに中二病の再来である。(好きでやっているのは楽しそうでいいと思う。ただ、時と場合によっては他所でやって欲しいのも確かである)

人生において、さらなる負荷を求める信念もないまま、トレーニーのように振る舞うことはできない。無意味だと感じるのであれば、それは仕方のないことで、この限りにおいて、パワーウェイトはダサいのである。そんな人間が、トレーニーのような充実感を味わう方法はきっとたくさんあるけれど、身軽なまま色々さっさとやっつけて、軽やかにお家に帰るのが手っ取り早い。

今日は疲れた劇団ひとりであっても、せめて軽やかにお家に帰ることを目指して、それを良しとして、今日を過ごしたい。