朝ノオト

空想に遊ぶ

凡人

5/11、金曜日。今日は1限が休講でぐっすり眠れたので、すこぶる調子が良い。昨晩は研究室の飲み会があり、ついワインが進んでしまったけれど、それは楽しかったからで、よく寝られた今日には全く響かない会だったので素晴らしいと思う。あまりいろんな人と関わらないので、プライベートな時間に人と会うことはほとんどないのだけれど、たまにある、こういった類のイベントごとで、気の抜けた感じで過ごす時間にはいい違和感があって好きだ。うちの教授の先生は、いつも部屋にこもっているので、会場となる安い居酒屋に来る道中を目撃してしまうと、公園を歩く象を眺めているくらい不自然に思ってしまうのだけれど、それも面白いと思う。

きっとお互い違和感(あるいは脱力した状態)のあることを認識した場で交流することは、時には良いもので、新しい発見がある。自分自身がそうありたい仮面について想像することができるし、男の人は酔うと理想や過去の感傷を話しがちなので、理想について考えるのにはいい手がかりになる。

兎にも角にも、強制的な環境には違和感が伴っていて、普段は考えることのないことがふと話題に上ったりするので、たまには良いと思う。

自分自身が過ごしやすい環境というのも考えもので。刺激的な感情が、足りなくなってしまうので、全部をリセットしてしまいたい感情に見舞われてしまうことがある。落ち着いている時にはそれがあまり賢くないことがわかるけれど、そうでないときは真面目にそういうことを考えてしまうので、なんにせよリラックスする努力は大事だ。好きなものを好きだと言えて、それがわかるにせよわからないにせよ面白がってくれる人は貴重なので大切にした方が良い。

僕は男で、まだ23歳なので人生の妙には触れることはできていないのだと思うけれど。人と人が圧倒的に分かり合えはしない、理解はできるけれど、ということを薄々感じていて、とても寂しく思う一方で、それでも群れて命を続けてきた命を愛おしく思う。

理想を考える世界を持ちながら、実際的に生活を維持する、あるいは効率的に人生を過ごす世界を持つというのは非常に仮面的で、人間らしい営みだと思う。

仮面と違和感(グロテスク)はとても重要なものだと考えていて、どう足掻いたところで予期せぬ人間像が形成されることを理解していれば、偽ることの積極性というのは諒解されるはずであって、その意味においては、仮面は誠実な表現であると思う。僕は潔癖症であるので、そういった誠実さこそが、大切であるのだけれど、そういう無意味な縛りを持っているからこそ、長く人生を味わえるのだと思う。

今日は、大学時代に仲の良かった人(とは言っても月2、3とかしか会わなかった人なのだけれど)と会って、彼はなかなか味わい深い人だから、戦略として選んだ結果、ホワイト企業を選んだ人で、就職した後も自分の創作をつづけていたと聞いて、それはとても希望だと思った。自分の人生は1つしかないもんで、1つの時系列しか実際の体験することはできないけれど、理解できる人の人生を眺めることには意味があって、それを希望とすることだってできる。

逆に、三島由紀夫は30歳くらいで、死んでしまうのが良いとかいっていたけれど、それが美しさの1つだ理解できたとしても、好きだと思わないのであれば、無視すればいいと思う。リラックスすることが大事であって、そのことと頑張ることが矛盾しないことが大事なのだけれど、身の丈に合わないことは、自分の凡人さを認めて、ちょっとだけ葛藤して、諦めることも素直さだ。

僕が詩書きながら、ブログでたくさんの言葉を尽くしているのも1つの凡庸さの自認であるけれど、それは必ずしも自己否定には繋がらない。諦めることと、自認は、違うことを認めてしまうと良いのだと思う。

僕が愛するブコウスキーは稀代の作家であり、素晴らしい非日常を描きながらも日記のほぼ全てを、飲酒と競馬場での情動で綴っている。そこには、諦めがあって、いやったらしいのだけれど、惨めではない。代わり映えしない日々をなぞりながら不器用な螺旋を描く中で、彼は誰にも書けなかった人生の肌触りを書いてみせた。タイトルが「死をポケットに入れて」というのも、70才くらいの爺さんがかいてるのだから非常にシャレが効いている。いやったらしいのは、胸をえぐられるような本当らしいことを言っているからで、そこに人間性がある気がするから気持ち悪くも、面白く思ってしまうのであって、70にもなってなってそれを続けているのは、面白いを超えて、尊敬する。

生きていける状態をキープできるのであれば、好き勝手やっているのが、素晴らしい。わがままを通すことは、悪いことではない。そのために一方で、いやったらしい仮面を作る必要があったとしてもそれは積極的である。

ブコウスキーは酒に強かったので妙な気分になった時には、すぐにウイスキーのロックでも煽って、競馬場で人を眺めて、それで良しとすることができたのだろうけれど、酒に弱く顔が真っ赤になる僕にはできない。酔わなければ実質は変わらないとは言え、見目というのは不可避にムードに関わるので、差し障る。しかし同じように書くことはできる。書いている時には、顔色を見せる必要もなければ、人の目を見なくても良い。人の目を想像することと、見ることには大きな隔たりがあるので、書いている時には何にでもなれる。あるときは、気楽に歌うこともできれば、あるときは絶望することもできるし、時には絵そのものになることもできる。

凡人であっても、それを自認していても、天才でいられないからこそ、世界を分けることができて、一方で演じて、一方で好き勝手やれる。天才でなくても、やっていければ譲らなくても良い世界があるのだと、凡人の僕は思う。それはとても大事なことであると思う。酔っ払った、僕にはそれを語り尽くすことができないけれど、それを良しとして眠れるのもまた凡人の特権であると思います。おやすみなさい。