朝ノオト

空想に遊ぶ

虚言癖と青い鳥

2日連続の深酒と、朝から騒いでいた犬の睡眠妨害で、フラフラになりながらもまた、別の宴会に向かう電車に揺られている。自由に遊んでいるつもりでも、案外に縛られてしまう。人と何かをすることは、一種の共犯関係を築ける楽しい遊びであり、上下動する人間性に対する緩衝材になりうる知恵であるけれど、2つのものが触れ合う間に働く力はどれもが全て歓迎できる類のものではない。身勝手にやっていても、細かい力が集まって、予定された場所、その場所に対して気乗りするかどうかに関係なく、ガタンゴトンと音を立ててこの体を運んでいく。

うちの犬は頭が悪く、非力で、わがままなやつだけれど、よくわかっている。自分に身に降りかかる不自由に徹底的に反抗する。今日だって、来客があったために二階の寝室に遣られたときも、1時間ずっとドアを掻きむしっては吠え続けていた。なんの進展もない跳ねっ返りであっても、その意気さえあれば、僕ならもっと上手くやれる。と感じるが、そもそも何が自分を縛っていて、どこに向かって吠えればいいのかさえわからない。

この日記だってそうだ、毎日毎日書くべき事象なんてこの身には降りかからないし、今日は暑いし、頭はボーとする。おまけに犬もうるさい。それでも書かないことの方がむしろ自分を締め付ける気がして、アルコールで蕩けてしまった脳みそを振り絞る。今日も今日とて、一寸先は闇、今書いているこの文章だけしかつぎへの手がかりがないままで書き続けている。やるべきことはたくさんあるのだろうけれど、上手く組み合わせなければ全てが毒になる。自由がないままで、それに触れた瞬間、接点からボロボロと崩れてゆく。そこにあったはずの愛おしい感情は、すぐに傷んでしまう類のものだから過信してはいけない。朝の光の中、ベランダにとまった鳥のようなもので、それは青い羽をつっと輝かせて声を震わせる。なんとも美しく、壊れやすい接触だ。幸福のブルーバードが鳴く頃、疲れ切った眠りの中にあれば、人はたやすく窓を叩いてそれを追い払うだろう。適切な日差しの中で窓の外に想いを馳せなければ、得ることのできない、限りないタイミングの最中で浮かび上がる自由。

目を開けていることができなくなってきた。こんな微睡みこそが、劇的な感情をでっち上げるせいで、詩人はみんな眠い顔をしている。元気満々でパソコンやらに向かい仕事に精を出す頃、青い鳥について考えることはできないのは人間の仕様だから、全ては虚言である。しかし、そのデタラメが言わんとしている世界を、清々しさを感じることはできると知っている。あるときは人生の主人公であることを全身で理解することさえ出来てしまう。

これを書いているうちに、冴えない男4人で鍋をつつき、今月最後の宴会を終えた帰りの電車に揺られている。眠たくて仕方がないけれど、満足はしているので、見えないけれど、考えられないけれど、見たいものや想像したいことは湧き上がってくる。行き止まりになっも、綺麗な嘘がつければまだどこかに行ける。あるいはどこに行ってしまおうが後悔はしなくても良い。後悔は毒だ。お腹も満たせないし、寝つきも悪くなる上、素晴らしい夢を蝕む。今、考え、想像していればそれで十分であって、カーテンの向こうにいたかもしれない青い鳥のことを嘆いたところで望みはない。なにせ陰気な場所が嫌いな生き物であるので、こだわらない方が良い。たまたま偶然、見かけることがあったら、その時に限っては、世界で1番自分が美しい瞬間がやってくることだけが確かだ。

なんというか、こういうことまでしか僕には言えない。曖昧すぎる瞬間のために、人生を飾り、飄々としながら、手元に集中し、ときおり窓の外を眺めないと感じられない人生があって、そのことを大事に思っている。今、疲れた体で車窓を眺めても、鳥なんかいやしないし、もちろん歌ってもいない。それでも、見たこともない青い羽の輝きで以って、僕の命を肯定していた虚構の気配、予感が、なんとも心地よく、繰り返す。愉快な微睡みが飾るので、この電車が何処に行こうとも、まだ自由である気がしている。