朝ノオト

空想に遊ぶ

蕎麦の実

 

 

 

 

 昨日、我が家に蕎麦の実が届いた。

 1ヶ月ほど前、母がテレビか何かでみて、健康にもいい上、カロリーの吸収を抑える働きがあるから、もうすごい!とはしゃいで僕に話してきたので、僕もかなりはしゃぎながら、楽して健康体になる希望を胸にアマゾンで注文していたものがやっと届いた。

 正直言って当時の胸の高鳴りはとうの昔に止んでしまっていて、最近は生活リズムを整えたり、トレーニングをしていたりすることもあって、ダイエットのことはあまり気になっていない。母とアマゾンで蕎麦の実を探していた頃が一番楽しかったな、と思いながらも手元に来たからにはとレシピを検索する。

 茹でて雑炊のように食べるのが主流なようで、ミレット(ひえやあわ)と一緒にコトコト20分ほど煮込んでリゾットにするとかいうレシピを見つけて、「あっこれ、火垂るの墓で節子が白米が食べたいなぁって言いながら食べてたやつや……」なんて心の中で言ってしまったが最後、こんなもん食ってりゃ誰だって痩せると思って、なんだか馬鹿らしく思えてきてしまった。

 最近、Twitterなどで実質ゼロカロリーとか言う冗談(きっと元ネタはサンドウィッチマンの伊達さん)を見かけることをふと思い出した。辛いものはカプサイシンで脂肪燃焼するから実質ゼロカロリー的なあれ。

 本来は栄養満点でたっぷりカロリーを取れる意味でも、もてはやされた食べ物が、今やそのカロリーのせいで少し疎まれてしまっているのが不思議な感じがする。トンカツもラーメンも、白米も美味しいからみんな好きだけど、もはやカロリーが邪魔になってしまっている。ありふれた感想ながらも、とても平和な時代だと思う。本当の意味で飢えることがないってのは紛れもなく豊かさだ。今やジムやパーソナルトレーナーにお金を払って痩せる時代。バカみたいだなとも思う。

 そんな感傷はどうでも良くて、やはり食べ物は美味しいと思って食べた方が良くて、体に良いものが美味しく感じることが究極的な理想だと思う。ゼロカロリーやら言って食べるのは変だ。運動だって、結局のところは労働時間のせいで足りなくなっているのだから、適度なバランスを取り戻すためにお金を払うのは、(虚しい循環になり得るけれど、)実は理にかなっているのかもしれない。

 蕎麦の実もまた然りで、お米とは違う主食として楽しむことができればそれが一番良くて、「痩せるために食う」ってのは馬鹿らしい。それなら食べないのが一番のはずだ。浅はかな思考回路で危うく食べてもいない蕎麦の実をなんだか嫌いになってしまうところだった。

 食べ物である以上、食べてみてから色々考えたほうがいい。美味しければそのまま食べたらいいし、おまけにシェイプアップにもつながるのなら最高だ。 そもそも体に良い食べ物なんてものはなくて、体に良い食生活があるだけだということを忘れてしまいそうになるけれど、そのためにも食べ物に関していろんな引き出しを持っておいて、うまくバランスをとってゆく術を身につける一環として蕎麦の実を知っておくと良さそうだ。体形とかそういうのを超えた大きなバランスのために食べることこそが最大の目標であって、何を食べるかということはそのための一部でしかなかった。僕が「食べること」がよくわからなくなっていることが、蕎麦の実を巡ってかなり明らかになってきて、どういう感情なのかはよくわからないけれど、蕎麦の実のことが好きになってきた。

 そんなこんなで今日は蕎麦の実を美味しくいただくための夜ご飯を作った。白菜、人参おろし、大根おろしに舞茸と鶏肉の醤油ベースのお鍋。これの最後に蕎麦の実を頂く。見た目は茅葺の民家に暮らす農家の夕飯のような、囲炉裏に釣ったお鍋の中身のような素朴なおじや。スプーンですくって一口。知らない味が知らない食感と一緒にやってきて、お米のそれとの違いにびっくりするけれど、それでも美味しいお出汁と優しい食感がわかる。どんぶりにいっぱい食べる頃には結構好きになっていた。痩せるために食べようと思っていたら、僕はどうやってこの実を食べていたのかわからない。オレンジジュースを混ぜてプロテインを飲むときみたいに、何か良い味のするものに紛れ込ませて食べていたのかもしれない。今日食べたおじやは、とびきり美味しかったわけではないのだけれど、この味と、食材と、しっかり向き合うことができてよかったなと、ほっこりした。