朝ノオト

空想に遊ぶ

パラレルの居場所

 今日も今日とて電車に揺られる。

 乗客はどこをみるでもなく窓の外を眺めたり、もはや目を閉じたりしている。半径3メートルほどに広がるパーソナルスペースは人でぎっしりなのだけれども、それでいて、自分を含む多くの人がイヤホンで耳を塞いでいるので、実は幸福なひとりぼっち体制が成立している状況でもある。

 朝っぱらから何も湧いて来る感情がないので暇つぶしに文字を書いて遊んでいる最中だから、必然的に表情は無だ。そんな人間であっても、ヘッドフォンから流れる曲は実に陽気なもので、何もない状態であっても、一人でいる限りは充実している。人と交わる時には少し支障を生んでしまうような状態であっても、保たれている調和はあって、少し蒸し暑いこの電車の中ではすんでのところでそれが保たれている。こんなにたくさんの人がいるのに、みんな一人でいられている。

これは技術だと思った。あまりに高密度に人が集まってしまうから、みんなに分かる不文律があって、各々に一人の技術を発揮している。あのメガネのおじさんは一体何を聞いているのかわからないし、きっとYouTubeを眺めるお姉さんが何を思っているかも全くもってわからないけれど、その小さく閉じた世界で起きる循環はうまくいっているような気がしているし、それはとても良いものだと思った。

 きっと人と人が同じ空間にいるのにスマホやらをいじってばかりでいることを不自然に思う人もいるはずだけれど、自然というのもまた多様で柔軟なものだから、今までになかった状況が生まれれば、その関係に応じた均衡が生まれるはずで、例えば重なった瓦礫のように身を寄せ合うしかなかったこの電車という箱の中でも、スマホ片手に別の世界のレイヤに移ることができる力を得た今では、同じ場所にいても違うレイヤーにフワフワと浮動する人間でいられる。

 ネットやいろんなものがある今は「一緒」とか「一人」も沢山ある。違うところにいても一緒に居られる。同じ場所にいても一緒にはいない。同じ場所にいるから一緒にいる。自他共に目まぐるしく変わる、物理と精神の位相の中で、時に混乱してしまうけれども、こんな中でしかわからないものもあって、発達しない感情もある。わかりやすく同じ場所にいても、一緒には居られない世界の中だからこそ、自分の居場所に敏感になれるし、平行に広がった世界の中で初めてうまくいく人間関係だって、友情だって、愛だってあるはずだ。

 こんなことを書きながらの朝の通学路、満員電車を見過ごした。遅刻が確定してしまったけれど仕方ない。いくら一人で居られるといっても限界があるし、それが見極められるってのも幸福だとも思った。広がったような、実はそうでもないような中で、自分にちょうど良い居場所を探すことが、誰かとのちょうど良い距離感をさがすことが、いつだって難しくて楽しい遊びだ。