朝ノオト

空想に遊ぶ

白と強度

これは鬱なんかではない退屈だ。もっともっとありふれて、心の楔のように深く突き刺さる感情だ。内向的にですら、思考は進展してゆかない。疲れているわけではないはずだ。脳みそはピタリと止んでいる。心もそう。それでも深いところに届いている。一人でいられるのなら、

しばらくは夢中になれるかもしれない。

日々、僕は僕でいることが求められ、学生であることが求められ、人間であることが求められる。静まり返った肉の塊ではいられない。常に問われては何かを言わなければならない。何もないことですら言わなければならないし、そんなことを言ってはいけないようだ。「お前はどう思う?」と気にもなっていないことを聞かれては、A4何ページのまとまりを吐き出すことだけが求められる。目の前の友人は、いつかの自分を思い出して僕に笑いかけてくれているのかもしれないから、僕もそのいつかを思い出して笑うのが愛だと思って努力してみるけれど、真っ白で落ち着いてしまっている記憶の中には何もなかったから、ちょっと辛くなるしかないな。

波のたたない、全ての響きが沈み込んだ心は何にも及ばないし蝕まない。空虚といえば何もないようだけれど、そこには不足もないはずだ。夢中にさせるような想像力はお休みをしているようだけれど、眠りの安息がある。静けさだけで満ち足りている心が一方にはたしかにある。ここに座って息をしているだけでも悪くないと思っているのに。

退屈は、自分自身を言うための言葉だった。家から出ると、あるいは出なくても、人との間で、自分の中で響かなくなってしまったこの肉がひどくつまらなく思えてしまうから、こんな確かな白で固められた心を億劫に思ってしまうね。僕は底に溜まった僕を思い出して、曖昧な反復を繰り返す事しかできない気分になっている。指示されたA4のテキストが積み重なっていくたびに、また僕が形を与えられてしまってゆく。呼吸を凝固して、何も言わないを言い続けること、白をそのまま示し続けるのは難しい。

その実は満たされた心と、色とりどりにうつろう元気な人たちの間に触れるものがあって、そこに残るしみは自分のことであると告げられて、知らない色が付いているのでびっくりしてしまう。白く充足した肉はしかし、その境界のことで窒息してしまうみたいだ。

それなら反復だけは正しいことにすれば良い。人と関わりたくないときはそうすればいいのだけれど、そうはいかない時、例えば自分が自分のことを気にしてしまっている時、自分が知っているのはいつかの自分のことだけだから、それででっちあげれば良い。退屈の特効薬はそんな反復だ。命を燃やす情動を持たない時はあまりにありふれているので、繰り返さないとならない。ふと気付いた時にどこかにいなければ、何かでいなければ声が出せない。見ることもできない。ぐるぐるに包まれた体のように、なされるがままに脅かされる。安寧のない退屈を抱えるのには人は弱すぎる。思い出せる自分を積み重ねた先に、今日を見つけられれば良い。虚ろな頭で、不感症の心で触れる自分は優しい。あたたかいものでで、小さく白いのを包んだらきっと良い感じがするんじゃないかな。

訳がわからずとも、朝食のシリアルを口に含めば、靴を履けば、音楽を聴けば、いつもとおんなじ風に曖昧なことを考えれば、例えば愛のこととか。いつだってそれがわかる。昨日までの自分のこと。つまらなくとも、足りなくはなかったことを。これからまだ膨らんでいく気配があることを。失っていくことも、変わっていくこともあるのだろうけれど、寂しくはないことを、使い切ったハチミツのボトルを見ながら考えたりする。いつどこで買ったのか思い出せないけれど、美味しかったな。

変わっていくものにも嘘はなかったことを知っている。だから、今も嘘をつかなくていい。せめて静かな心を自分で苦しくさせないように、大切なものだから、いつかの自分で包み込んで、繰り返して、悪くない今日も地球を廻せば、夜が来て、朝が来て、ふと光でいっぱいの散歩道に自分を見つけたりする。