朝ノオト

空想に遊ぶ

メイキング

 昨日は空がすうっと晴れていて、それと同じくらい心も軽やかだった。生きることとはかくも喜びにあふれているのかっ!って初めて生きた人みたいに沸き立って、実際にそんなことを友人に口走っていたら、彼もまた楽しそうだった。頭の中は溢れるほど期待に溢れていて、しかも広がりがあったので窮屈ではなかった。見えない構想があちこちで立ち上がり始めていたのでせわしなく視線を行ったり来たりしながら、きっと忘れてしまう今の自分のことをiPhoneのメモに書いていた。

 言葉では届かないほど深く透き通った感情のことを思い出すことができても、覚えてはいないみたいで、だから僕は自分の作るものが好きなままでいる。生きてるって素晴らしい!と言ってウキウキ歩いていた人は自分であっても、それが今に連なっているとは到底思えない。それでもメモに、ブログに、画用紙の上に、削られた木に溜まっていくことだけが確かで、形を持っている限り僕自身にだって見ることができる。

 自分が流し続けるものを形にするだけであればそう難しくはない。画用紙に線を一本引けば次の線が描きたくなるし、誰にも見せなければいいので、好きに描ける。たまに何もない時はあるけれど、それはそれで何も書かないを続ければ楽しい。最初の一筆で結晶してしまった画用紙が積み重なっていくのだって良いかもしれない。調子のいい時は色だって、形だって使えばもっと楽しい。広がりも収縮も自由自在だ。

 生活をしているとつい画用紙を広げられないところに居てしまうことが多いけれど、そういう時だってiPhoneのメモはいつだってポケットの中にあるから書くことはできる。これは良い。多分ちゃんとしていることをしている最中にでも、見えない自由な広がりが生活に、体に重なっている。これはやっぱりすごく良い。

 人はいつでも逃げる必要はないけれど、全て誰かの想像力に包まれてしまうと想像以上に危ないので、そうならないための術をひっそりと持っておかなきゃならない。ポケットの中を漁っても出てこないのを脳みそに忍ばせる。私とあなたの間に、そんな不可侵の空間をジワリと伸ばしたままでも触れ合えるのが、人間の愛っぽいと思う。

 自分のことだけでは足りなくなってしまうのも人間で、だからどんなにご機嫌な時にだって、日差しの中を歩いたり、布団にくるまっていたりする。時には誰かと。感情でだけ写せるバランスがある。外側と内側が自分の中にあるからその境界をいつだって見極めなければいけない。自分がどんな形なのか、破れたり弛んだりしてしまわないように、終わらない均衡を目指し続ける。人は考える葦だとパスカル先生は言ったみたいだ。それほどまっすぐ伸びている気がしないし、根っこも見当たらないけれど、多分その通りだ。内側で広がるものも外側で移ろっていくのも全部そのまま自分ではないから溶け合うことを信じて油断してはならないし、全部、自分に触れているので感じることを覚えてなきゃならない。

 刻々と火を燃やしては浮かび上がる熱気球みたいな命だ。いつのまにか知らないところに浮かんでいて、冷まされながら漂う。誰かが同じように膨らんでいて、そばにいるような、遥か遠くにいるような曖昧な距離感の中で戯れることができる。ふわふわ、じれったいごっこ遊び。

 昨日みたいに無制限に浮かれることはできないみたいだけど、終わらないバランスの上で今日も遊んでいる。よくは覚えていないけれど、さっきお昼に食べたオクラがとっても美味しかった。初めて食べたみたいに、甘くて、美味しいオクラの味だった。いつのまにか抜けてしまっていたものが戻ってきて膨らんで、ふわっと少し浮かびあがっているのかな、なんて思った。