朝ノオト

空想に遊ぶ

チョコミントと夢

 来る日も来る日もおんなじような景色をみながら、家とどこかを行ったり来たりして、きっと早すぎる朝に眼を覚まされてしまう日々にはこれといって目新しいものなんてあるはずがないのに、生活は劇的だ。良くも悪くも。時間が限りあるもので、不可逆に流れていくものであるから、例えば、寝坊して慌てて家を出る瞬間、飼い犬がトイレ前で気張っているのを見つけた時なんかは、劇的だ。こっちを見て気張るんじゃないよ、まったく。あんなに小さな生き物に、大きな感情を抱けるんだから退屈しない。時間が圧倒的に迫力を持ち始めて胸から溢れ出しちゃうくらい惜しげもなくなるから振り返らなくて済むな。

 江戸川乱歩が言ったとかいう「うつし世はゆめ よるの夢こそまこと」ってのは、文体も含めて、言い古されてきたような言い回しだけれども、だからこそ、あえていうところに意味があるように思う。「空が青いね」みたいに、たまに言っておかないとすぐに忘れてしまう。頭が良くないので、目の前のものにばっかり夢中になって、物の値段もよくわからずに1000円台のワインを比べたりしているうちに、全部忘れて気が滅入ったりしてしまう。お金を下ろすのを忘れていたから、財布も空っぽでびっくりして、すぐに気分どころじゃなくなったけどね。

 目には見えなくても頭の中には色々あるから、それで素敵な気分になってしまえばいいことだってすぐに忘れてしまうから、うつし世はゆめだなんて言わなきゃいけない。そんな気取った言い方をするのが良くない気がするけれど、ロマンティックやムードそれ自体が、起きている体で見るべき夢だったりする。夜の夢が目にも見え始めるようになったら、それはきっと楽しいけれどすぐに寝たほうが良い。頭の中で膨らませていられるうちは、すこぶる調子がいいもんで、南国のタクシードライバーみたいな服装で街を歩けば、気分は暖かいし、どこにだって行ける気がするのも愉快な白昼夢だよ。

 現実だって夢だって、体感の一部分に過ぎない。辛さだとか楽しさだとか、そういうのは大抵感じるもので決まるのだから使える夢があれば使えばいい。想像力を勿体ぶるには人生はきっと短いはず。現実の方はいつだって不可逆で積み重ねた上にしか存在しないから、ちゃんとした人間でなくても毎日をちゃんとしないと、行きたいところにはいけないのがわかりやすいけれど、夢の方だって、元からあるのだけでは退屈すぎるから、見たいものを見たいなら、頑張って夢見がちにならなきゃいけないみたいだよ。

 現実には体や声があるもんで、孤独になりにくいけれど、夢の世界はどうも一人ぼっちが多いところなので、ちょっと寂しくなりがちだ。夢うつつ関わりなく、人の世界には触れ合うところが必要で、混じり合えないけれど、ふんわりと広がりを持ってゆく境界面が人を元気にする。夢の世界でだって、人は誰かを探している。

 たとえば触り心地の良いノートを一冊買って、誰かと交換日記をしよう。自分のこと以外、今日食べたアイスのこととか、そういうことを書く。今日の気分だとか、将来の不安だとかは置いておく。コンビニに新しく入った、チョコミントのアイスのこと。蒸し暑い1日に帰り道、明るい緑のそれが冷凍庫の中でとっても素晴らしいものに見えたこと。この世で初めてチョコとミントをアイスにした人のこと。アイスの誕生日、その人は、楽しかったのか、悲しかったのか、疲れていたのか、想像してみる。

 そんなことを考えていると、自分のことだって少しだけ書きたくなっちゃうだろうから、その時は書けばいい。素敵なチョコミントの夢を見ながら、一口食べたその味が、やっぱり大人の味過ぎて、笑ってしまったこととか。そういうことを書いていると楽しいと思うよ。そんでもって、誰かとそんな夢の続きをみられたとき、想像もできなかった素敵な気分でいっぱいになるといいね。