朝ノオト

空想に遊ぶ

まっ暗い穴に花束を

 たとえば一年間、何かを頑張ればきっと周りの人がちょっとやそっと頑張っても出来ないことができるようになるのだと思う。石の上にも三年と言うけれど、今の人は忙しくまんべんなくいろんなことをしなくちゃいけないので、何か1つに敢えて集中することをすれば三年もかからずして抜きんでることはできる。少なくとも普段の生活で気にするような小さな世界においては。

 とはいえ一年間の努力の軌跡なんてものは人に見られるのが恥ずかしい。しかも誰かに見てもらっていないと不安になるし、面白くもない。誰も見ていないところで練習するような古い美徳、中二病的カッコ良さの概念を大切にしつつ、そんな自分を定点観察されていたい願望。努力1つするのにも理想があって、せめて想像の中だけでも、僕は甘ったれていたい。

 決して返事をすることのない静かな穴に向かってあれこれ放り込むことを想像したことがある。地面にぽっかり空いた底の見えない真っ暗な穴の傍に座っては手紙を書く。苦手な絵なんかも描いてしまって、誰にも見せられないような代物なんだけれど大切で、自分以外の誰かにやはり送りたくなる。そんな時、例の穴に放り込んでしまう。見えなくなるまで落ちて行ってしまうのだけれど、どこかへ届いた感覚だけがあって、それが溜まっていくのも感じられる。

 星新一の小説にもこんな穴の話が出てきて、その時だって人はいろんなものを放り込んで、主に厄介な廃棄物を捨てたりして、便利にその穴を使っていた。行方はわからないけれど、どこかに行くことだけ確かな存在は、その曖昧さでもって人にとって優しいものなのだと思う。

 

「穴」

 

どこにもつながらない穴を見つけた

僕はヤッホー、叫びこんだ

返事もなくてただただ響く

次の日、黒い穴の底を眺めていた

底は暗く揺らめいているように見えた

また次の日、道端の花をふと投げ込んだ

音もしなければ、もちろん喜びもしない

ある日、人には見せない詩を投げ入れた

来る日も来る日も返事はない

穴はいつでも深く真っ暗なままでいた

それでもどうして、穴が心地よかった

そして誰に対してでもないはずの愛してるを叫び込んでいた

 

 既視感のある感情だと思っていたら、昔、同じようなことを書いていた。詩を書き始めたころの言葉。このころの方が切実な感じがして少し笑ってしまいそうになるけれど、感じていることはあまり変わらない。今となってはそんな確かな不確かさへの憧れが大変に甘ったれた夢見がちなものだと思っていることだけが変化だ。

 ただ受動的に自分の感情や軌跡を積み重ね続けるような他者なんてものは存在しない。なにかを送る時、間違いなく相手がいて、その間にはなんらかの作用が起きる。向こうには向こうの事情があって、こっちの都合ばかりでやってはいられない。星新一の小説だってきっとそんな感じのことを言っていた。

 なにかを頑張ることは、そして誰かにそれを見られることは、間違いなく今とは違う状況に向かうことであって、それを理解していないと、無意識に体は変化を警戒して、だらだらしてしまう。一年間という期間を費やして、どこかの分野で深いところに行く。果たして実際のところ正解かどうかはわからない。でもやって見たいとは思うし、戦略はある。無限に広がるっぽく見えるほかの可能性に満ちた一年間を捨てて、それでもやらなければ進むことができない。

 頑張らなきゃなと思いつつ、不貞寝してみたり、youtuberがご飯を食べたり、クロちゃんが尾行されている動画をぼーっとみたりしてしまう。可能性っぽい広がりと、変わらない今の心地よさに安心している。時間は進んでいるし、それもまた立派な選択であることを忘れている。事の重大さというか、実際の構造に気づかないままで、存在しない楽にこだわっている。

 物言わず確かに溜まって行って、深くゆくえ知れずの穴は、自分の時間なのかもしれない。レトリックな遊びにすぎないのかもしれないのだけれど、はたして、そんな穴に僕は努力とか自分らしさとか、そんなちょっと恥ずかしくて、覚悟のいるものを放り込んで来られてこれたのかなと思う。なにがどうあっても、何かをすれば誰かに見られることはあって、それは仕方のないことで気にすることはないのだけれど、例の甘ったれた穴はすごくすごく近くにあって、拠り所にだってできる深さと距離を持っている。いつだって、放り込めるし、溜まっていく、たまに忘れてしまうけれど。

 いつかの自分が布団の中で願った、自分のためのまっ暗い穴。そんな素敵な場所は自分とひと続きに広がるものだったのだと思う。生きている限り、一年でも、何年でも、いつだってそばにある。そんな素敵な穴に、せめて花束を。手作りでも、不格好でも、詩を書いていた時より、贅沢な今が見えるから。