朝ノオト

空想に遊ぶ

僕の詩作における姿勢を記しておく。

 

僕は比喩を好まない。

僕はグロテスクなままの、名詞や形容詞の構成を好む。

僕はマチエールを好まない。

僕は表現主義を好む。

僕は言葉の美しさを好まない。

僕は体性感覚を好む。

僕は感情の複製を作りたいとは思わない。

僕は感情と体の間に生じる線画を夢見ている。

ついに捉えられず、失ってゆく感情の不完全だが、

間違いなくそれ自体が残す軌跡に魅かれている。

私は意味を好まない。

つまるところでは、分かり合えないから。

私はナンセンスを好む。

誰であっても、どこかへ行けるから。

 

 

以後、とりとめなくつづく。

 

僕は比喩を好まない。多くの名詞や形容詞を借りてきて作った幻想的な世界で感情を再現しようとする試みは、自然な方法だと思うけれども、僕がやるよりもうまくやる人達がいるし、僕にとってこれは素直ではない。

目の前にいる好きな人は、まるで太陽のようではないし、僕を呼ぶ声は朝を告げる鳥のさえずりでもない。

 

いくら絵の具を塗り重ね、マチエールを再現した油絵であっても本当のところを描き切ることができぬように、何かに触れた心を何かに例えることには限界があり、その先にゆくために突き抜けたり別の方向を模索する。

 

人に花を送りたい気持ちがあるように、事象や感情に重ねて、こんな言葉を並べて祝福したい気持ちは真っ当な創作の源となるものだと思う。ある種の過剰なマチエール。伝統的な不文律、作法。しかし僕は、こういう言葉以前に心に至るものがあり、そこを書き留めるためにはもっと違うやり方があると、いつからか確信している。

 

言葉は普段、コミュニケーションの道具であるから、正確な情報伝達を旨に作られている。ゆえに、言葉を用いた詩も正確な共感を前提とするように思われる。

白い雲といえば、万人が同じような白い雲を、用意された青空に浮かべなければならないと、作品の魅力は進行しないように、読者は不安に思う。

それは違う、何かを読んで何を考えるか、何を思うかは読者の自由であり、好きに楽しめば良いのであるなどと、当然、筆者は言う。これは至極正しいことであり、正しい以前の自然であるから、筆者が言葉を通じて、何かを言葉を介してそのマチエールまで再現してやろうと目論んだこととは何も関係がない。

(本人が忠実に誂えた実態が、それでもなお、自由なところで受容されるのであれば、それは少し回りくどく感じてしまうのである。)

 

アートとして言葉を使うことは必ずしもコミュニケーションではない。

アートは個人的なものであり、一人で至る道であり、その先にある感情であると私は思う。それは心地よくとも、不快であっても、あたたくても、恐ろしくても構わない。

(心はすべて、絶望的に隔てられたところにあって、いつも孤独と退屈を感じている。)

心を寄せ合うことは、人の愛らしい振る舞いの一つであるけれど、今はこのことについては何も話す必要はない。

 

僕の言葉は名詞と、主に形容詞の並記によって作られる。これは次元の小さい言葉である。様々な長さを持つ線、丸や三角、四角といった基本的な幾何学図形であるとも言える。あるいは、石や木のようなマテリアルと言ってもいい。なんにせよ構成である。

そこには秩序があり、座標を持つための具体が与えられ、僕の恣意によって変異がもたらされ、全体が生まれる。

読者は各々の心を動かして、書かれたものを読む。その時、複数の形容詞は、グロテスクな形体、多くはギザギザ、ガタガタしているままの言葉たちは、意味以前に方向と座標を定める手助けをする。

これは意思であって、読者は虚像を得ない。像を結ぶことがあるかもしれないけれど。

どこかへ行くことができても、意味に至ることはできないかもしれない。

僕にとって正確であるために、厳密なプロットを行うために、数多くの形容詞が必要である。形容詞は低次元であって、ゆえに純粋なベクトル量である。

 

僕の詩は感情よりもその動きであり、揺らめきで、心から伸びる線でありたい。

肉体よりも人であるものを作りたい。

この意味において、僕はいつも愛すべき仮面を作り続けている。