朝ノオト

空想に遊ぶ

ノイジーノイジー

意味がわからなくなって来た。意味がわからない。わかり始めると本当に死にたくなってしまうのでちょうど良い。わからないけれども本当に感じていることが重要だ。わからないことは怖い。だから感じることで満たされていれば良い。体から感情を呼ぶものは中にも外にもありふれているので難しいことではない。たとえば手触りを想像することができる。つるりとしたからし色のタイルに触れることができる。質感は広がりを持って、見上げれば壁さえ現れる。正方形の基壇を持ったの内部は中心部のドームから空を見上げているので、十分にリラックスしていた。目の前の建築物でさえうまく力が抜けていることが僕にはとても重要なことだった。空には太陽がいくつか昇っていて、さらに遠くの方でも瞬くものがあった。色塗りの量塊に融けた物体は何にでもなれそうな気配を見せていた。今は赤色で、広がりを持つことと苛烈であることは無関係であることを知った。ますます良いと思った。

足元に影がいくつも伸びて、僕は試されていると思った。全ての瞬間に、ただ在る事が常に告げられ、その姿勢が問われていた。

反復だ。反復が大事であると、繰り返す事が必要だと声を発した。言葉が案外に頼りないことを言っておかなければならない。それは世界を埋めるためのパズルピースではなかった。瞬間に世界に響いてほしい揺らめきでしかなかった。今、僕はお腹が空いて、わからないを感じていて、わからないを言っている。言葉で説明できないものや人に行っても伝わらない気がするものを、そもそも存在しなかったことにすることに慣れてしまっているだけで、実際のところはたしかに湧き出ているのであって、体にとても近いところで溜まってゆく。時として想像力と呼ばれたり呼ばれなかったりするそれは、この体を生かす流れであるけれど、新鮮な空気を常に求めていて、淀んでしまうとむしろ内側から蝕んでしまう性質のものであることは意外にも知られていない。体がここにさらされている限り、何かが触れて、感じるために何かが浮かび上がって来る。抱えておくことはできないそれを手放す術は重大なものでない、知らない流れにはなしたそれはきっとまた何かに触れてゆくだけのことで、人の自由を願っている限り毒にはならないのだと認めれば良い。

僕が広がってゆく時、きっとどこかで誰かも広がってゆくのだろうという気配を感じた。

それはとても良い響きだと思った。