朝ノオト

空想に遊ぶ

命のこと


「0」の発明と同じくらい根本的で、人間らしい発明は「終わり」だと思う。


始まりと終わりがあると思うから、常日頃からあつらえられた終わりを映画や小説、そしてニュースなんかで見つづけているから、命もそうだと思ってしまいそうなんだ。意味がなければ、劇的でなければ、幸せでないならば、心地よくなければ、終わりが来るべきだと考える。
命はもっと自然で、ただ続くものだ。知らないうちに始まって、知らないうちに終わる。想定していた始まりと終わりはあまりに曖昧すぎて、瞬間ごとのあり方、多分一瞬先もそれが続くことの予感、それ自体でしかありえない。少なくとも今の命は。命の終わりが開発される時が来るかもしれないけれど。
サバンナの動物たちは生きたいと思って生きているわけではなくて、お腹が減ったから獲物を狩るのだろうし、噛まれると痛いから必死に逃げるのだと思う。それに似たことがずっとずっと続いて、命を紡いできたということしたって、生への希望や意志なんて大げさに言わなくたって、命は神秘的だ。


安楽死が人間にも選べる時代だけれど、人間が作った文明としての「終わり」らしく命を終わらせる方法を哲学者は果たして見つけることができたのか気になるな。軽薄な予感としては、方法は無くて、哲学者も快楽主義に生きるか、自分に課したルールに従って生活を続けるようなことをしたのではないかと思う。

あるいは自然の中の成り行きで淘汰されたとして死を選ぶ人もいたかもしれないけれど、安楽死とは程遠い気がする。選択と運命、あるいは自然の線引きはどこにあるのか。命の始まりと同じくらい、終わりで人間は気持ちよくなれたらいいのに。

続くことへの運動そのものが命だと思っている以上、僕は僕の終わりをうまく想像できないままで、きっと人間も、未開発の終わりを探し求めるなんて言う命を継続していたりして、それは何だか生命が作る喜劇みたいにも見えるね。