朝ノオト

空想に遊ぶ

おかしなひとり

わざわざこんな朝から言うべきことではないけれど、僕は天才じゃなかったので普通の人間だ。仲のいい人間が数人いて、変わった人だと言われることもある。実に普通の人間だ。

全人類の平均値よりは元気のいい人そうでない日の差が大きいけれど、そんなに大まかな平均の取り方をしなければ、割と平均的な浮き沈みだと思う。

大雑把すぎる平均の取り方を無視して、自分自身が良心に従っているうちは普通であると自認することが、とても重要だと最近、すごく思う。当たり前のはずなのに、なんだか様子がおかしい。

今日はおそらく、男女問わず、世間一般にメンヘラなどといって片付けられてしまう人のお話になると思うので、非常に書き辛くはあるけれど、まずは書いてみないと僕にもよく分からないし、始まらない。(僕はやや抵抗して、ポエマーに踏みとどまっている。事実関係は別として、姿勢としては確実にそうだ。)

建築学科という芸術チックな学問を学んでいる上、日々、ポエミーを吐き出しているので、自然と、いわゆる変な人とお近づきになることが多い。特に大切なのはそんな変な人グループに属する女性が僕の心を魅了してやまないことであるのだけれど、悲しいことにそんな人は高い確率で自己肯定感が低く、どこかへこたれてしまっている。普段接しているとむしろそんな人たちというのは、感性が豊かで、優しい人が多い。しかし、日常においてもある決定的な瞬間に、彼ら彼女らはふと距離を取る。

これはあくまで僕の主観であって、鏡のように他人の中に自分の姿を見ている可能性もなくはないけれど、きっと間違いではなくて、一つ予感としては、そんな人たちは自分がその感性の中で歪に尖っていっていることを自認しているのだと思う。その歪さの割に、そんな人たちに直接的に傷つけられてきたことがないから、傷つけられなかったことに傷ついたことさえある程なので、的外れではないと思う。

卑近な例を挙げると、大森靖子やamazarashiの共感できそうだけれどもあまりに生々しかったり過激であったり、熱っぽくありすぎるような、人の音楽を人前で好きだと言えない。と言う友達がいた。話せばいいと言っても、周りの人はそんな音楽は好きじゃないから、その話をしても白けてしまうし、変な奴と思われておしまいだと言っていた。

ここから先は脳内補正がかかっている可能性があるけれど、その人は、一体何に虐げられてそうなったのか(と思うほど)、笑うときにはいつも申し訳なさそうに口を歪ませる人で、それでも一杯に笑おうとしていて、そういう笑顔からも、その人の優しさとやり場のなさについて想像したりしていた。

こんな風なアーティストでなくとも、案外、好きなものを好きと屈託無く言える人は少ないのではないかと思う。みんながなんとなく好きなものを好きというのが楽だから、と考えているうちに何が好きなのかさえ忘れてしまいかけているというのが実のところだろう。何かが好きだと言うことは、ある種、ある一つの方向に傾くことであって、誰かと近づいて、誰かとはかけ離れていくことを人は分かっている。

人は一人では生きていけないから、できるだけ共感できるように、仲良くできるように、生きたい。と言う願望はたしかに一つの答えだ。しかし同時に、それぞれが別々の体の中で、違うものを見聞きして、食べて、違う人と話して、違う時間に布団に入って、違う夢をみてしているうちに、一人ひとりが同じでいて、全部が共感できるわけなんてないのも一つの答えだ。

きっとこの後者のどうにもならなさについて、それでも、もう少しちゃんと考える必要がある。

一人ひとりが、その生活の中で、あるいは劇的な瞬間に、いびつに歪んで尖っていくことは避けられない。せめてその形の自分が、誰かのちょうどいいところに届くことを想像するのが良いのだと思う。夢見がちな祈りも、結構効くものだ。誰かを傷つけようとしなければ、好きな形で居ればいい。ちょうど良いところを探せばいいという明るい決意をしてしまえばよい。僕の脳みそはどうしようもなくお花畑なので、この考えだけで強くもなってしまうし、誠実に人と向き合うことができる。

僕は気持ちを真面目に話すときは言葉が詰まってしまってスラスラと話せないのだけれど、それがむしろ僕という人となりを示すのには適しているような気がするので、ちゃんと話せるフリはしない。僕は好意といっしょに、自分の歪さを、肯定したい。同時に、いわゆる普通とは違う形を持った人を、僕にぴったしだと、肯定したい。違っていることを、分からないことを好きだと言いたい。

極端な例え、僕は異性愛者の男性で、男性器をくわえる女の人には一切共感が湧かなくとも、くわえられたら嬉しいことは想像できる。全く共感も理解もできない形で気持ちを表現する人を、素敵だと、美しいと、愛おしいと感じることができる。分からないけれど、分かる喜びは、実はこんな風に世間にありふれている。ことセックスにおいては特に。そこにある寛大さ、理解をもっと広く開いてゆけば、それほど難しくはない気がしてくる。

雰囲気というのは、化学的な平衡状態を左右するようなものであって、それを無視できるほどに強い人間もいる一方で、大局を左右する。仲良くしなければ、同じでなければ、不便だという事実にばかり目を向けるのではなく、おかしくはあっても、一人としてどう在りたいか、どうすれば心地よいかを考え、それを謳歌する雰囲気を纏えば良いのだと、心の中の岡本太郎が言っている。

「メンヘラじゃん笑」という言葉が聞こえてくるかも知れない。その時は、にっこり笑って、「好きでやってるもんだから気分は上々だよ」と言えばよいのだとおもう。