朝ノオト

空想に遊ぶ

「いただきます」と「ごちそうさま」

ちゃんと言えてますか?

別に言わなくたってバチが当たるとかそんなことはないはずなんですけれど。言った方がしっくりくるので、僕はいつ何時でも、ぼっちめし飯の最初と最後でだって、手を合わせて、「いただきます」と「ごちそうさま」を言います。

お行儀やら育ちやらというのにはあんまり関係のない家庭で育ったもので、お箸の持ち方以外は気持ちの良いように任せてフリースタイルな生活様式を身につけて来ましたが、結局のところそんなにアウトサイダーな暮らしにはなっていないので、ありふれた習慣や生活ってのは案外うまくできているのだと思います。

僕はあの食事の前後の一連の儀式は自分の世界を作ることと同義だと感じていて、くだけた言い方をすれば、さあ食べるぞ!ご飯の時間だ!うわぁい!という気分を作るためのものです。

普通に何もしなくても、時間は過ぎて行くし、黙って食べても、1日三食は食べられるというのは事実ですが、僕はこの事実こそが嫌いなので、平然と過ぎ去ってゆく時間に名前をつけたり、儀式をしたりして、意味をでっち上げつつ楽しみたいのです。漫然と耐え忍ぶには、命は長すぎるので。

「いただきます」などというのはそのための手段であって、生活に対する一つの姿勢であると思っています。そんな態度があるから、毎朝、出来るだけ良い香りのするコーヒーを淹れるし、デスクには花を飾る。そしてゲイを疑われ、婚期を伸ばしながらも、学食のトレイに並ぶご飯の前で、ひとり手を合わせます。

先程から態度やら姿勢やら、客観的な言葉を生活におけるポリシーを説明するのに使っていたのは、実は大事なことです。自分に対してもわかりやすく信条を形にするとき、周りの人にもそれが見える、さらにいえば、同じような考えを持った人を、その人の振る舞いから見つけることができるかもしれないというシンプルな事実は、どの瞬間も実際生きている人間にとって超大事なことです。

数年前、学食で厳かに手を合わせて、170円の鳥の醤油揚げをナイフとフォークで嬉しそうに食べていた女の子にズキュンと惚れてしまい、そしてこっぴどくフラれたことがありますが、こんな惚れた腫れたの話までいかなくとも、些細な日々の振る舞いからでも、素敵な人間と出会えるかもしれないのは希望としか思えません。

出会い脳を満足させつつも、自分の思う美しい、素敵な、楽しい生活を、どんなやり方であれ形にする態度一つで、少なくとも僕の命は満足すことまでできてしまいます。この態度のことを僕は最早、ロックだとさえ思っているので、僕の半径15メートルくらいの世界はたまにロックンローラーで溢れてそれもまた楽しい気分です。

食堂でひとり手を合わせている人間を、ロックな人だと思ってみるときっと楽しいですよ。ついでに、自分も手を合わせてみたら、なんだかいい感じかもしれません。