朝ノオト

空想に遊ぶ

頭の中、小さく浮かぶ星と空気と

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かれこれ14日間、ほぼ毎日、そう何か起きるわけでもないのに、それなりの分量の日記を書き続けると、書きたいことなんてそう多くないことがわかる。些細なことが起きて、それにまつわることをあれこれ考えるけれど、いつも似たようなぼんやりした話に行き着く。何か、どうしようもない限界を突きつけられている気もして、焦る気持ちもある。一方で、おんなじようなことを何度も何度も書く作業は自分の頭の中の地形を確認するようなことで、そんな土地の上ではどんな風な言葉を使って、物語ればより自由であるか、自分の考えが及ばないところまで広がることができるかがぼんやりと見えてくる。

そんな頭の中の地形、底の部分というのは何を書こうと思っても、どうしても触れてしまう部分であるから、ささやかなことを、ささやかなままに言葉にしようと思っていても、その地面を知らないでいると、保つべき透明度の中に砂埃が立ってしまう。自分の根底に走る思想の基礎をこそ言わねばなるまい、語り尽くさねばなるまい、などと猛烈に言い足りなくなってしまうから、せっかく世界の断片を、さらに自分の言葉の断片で表現したものに、想像力の全て背負わせちゃうために書いたことが、ものすごくありきたりなことになってしまう。人は善意に生きるべきだ、とか、努力は大事、友達は大切に、早寝早起きはしたほうがいい、思ったことは形にしなければいけない、などなどいつも思っているけれど、意識していない当たり前に濁されてしまう。住んでいる街でたまたま見つけたプリンの美味しさが、その日を幸せにしてくれたのなら、純粋にいつもは感じることのできなかった幸せをこそ考える方が新鮮であって、早起きしてよかった、みたいな結論の周りをぐるぐる回っていても、新しいものを見ることはできない。

そういう自分の底に積み重なって、基本になっている感情というものをあえて掘り下げるための努力と同じくらい、それを基本だと、自分の思考はそんなものの上で繰り広げられているのだと認識することも大事で、当たり前を当たり前にすることで、そんな形をした自分と、その周りの接する部分に夢中になれる。世界のことがよく見える。

おそらく最初は、そういう自分の中に溜まっている泥のようなものを全部出してみないと始まらないのだと思う。久しぶりに、そんなことを庭におかれているホースに例えた言葉を思い出した。蛇口をひねったところで長い間、庭に放っておいたホースから出てくるのは、泥まじりに濁った水で、そのまま泥を出し切らなければ、水は澄んでこない。とかいう言葉であって、誰の言葉であるかは忘れてしまった。

誰も見ていないような日記をこう毎日毎日、書く意味はなく、成果が上がっている感覚もなかったけれどそれでも続ける理由はそんなところにあるのだと思う。僕はもっとこの頭ではしゃぎたい。言いたいこと、書きたいことをこそもっと自由に考えたいのであって、その時には、よくわかっている自分自身の思想さえ、それに気づいていなければ邪魔になってしまう。今はそんな僕を形作る言葉を全部吐き出さなければ、僕は不器用だから、自由に書けないのだと思う。僕は僕の頭の中に、大事な言葉を積み重ねていって、それはきっと浮かび上がっていつしか僕の知る形になるはずで、それを遠いところから眺めることが出来るようになった頃、僕は、その星と世界の境目で起きることをちゃんと感じることが出来る。少しだけ、書くことがわかってきた気がする。