朝ノオト

空想に遊ぶ

筋肉は魔法ではない

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月曜日の昼下がり、久しく近寄っていなかった扉を開ける。そう、トレーニングルームの扉である。出入り口は律儀に閉めてあるのに勝手口は開け放してあるので、キャンパスの片隅、緑の多いこの場所からはさざめく初夏の木漏れ日が見えている。過ごしやすい季節の風など意に介さず、膨張した筋肉をたたえたトレーニーは轟音を立てる扇風機の前で、適切な重量のバーベルを黙々と上げ下げしている。言葉少なな静寂の中、カチャン、とバーベルの音が響き渡るのを聴いて、内心緊張している。

猛烈にトレーニングを続ける先客を横目に見ながらスポーツウェアに袖を通し、シューズを履き変えると恐る恐るベンチプレスに腰を下ろす。

重量はたったの30kg。

ベンチに横たわり胸を張って、バーベルを持ち上げる。余裕だ。トレーニングを齧っていたのが3年前になってしまったこんな体でも、初心者レベルなら挙がることに喜びながら、2、3と挙上してゆく。第1セットでは15回挙げ、バーベルを下ろして「これはいける」と喜び勇んで重量を40キロまで上げながら、インターバルの休憩をする。

再び、ベンチに構えた時にはこのバーベルを10回は挙上できるイメージがあった。確かに。

しかし現実は甘くなかった。1度目からして重みがリアリティ満載でのしかかってくる。筋肉が少しきしむのが分かる。ふぅー!と呼吸に集中するしかない。なにくそと頑張って8回目を迎える頃には、普段感じることのない負荷、それは痛みではなくむしろ張り詰めて遠のいてゆく感覚が胸を中心に広がってゆく。頭ではわかっているのに、これをただ持ち上げればいいだけだと、さっきまでは持ち上げられていたのだと。それでも自分の体はまるで他人のように、感覚だけ残していうことを聞かなくなってしまう。

きっとこれが、限界なんだ。なんて近くにいたのだろう。と、そんな感傷に浸る間も無く、バーベルはついに体にのしかかってしまうので、もがきながらどうにかする。(危険な重量でトレーニングする際は誰かに補助をしてもらい、怪我をしないように注意しないといけない。その方が限界ギリギリまでやれるので効果も大きい。)

筋肉は魔法ではない。「Feel free」の機関である。出し切ったという感覚は刹那的なもので、身じろぎもできないような完遂の瞬間もやがて1分もすれば、心地よい疲労感に変わっていく。さっきまで挙げられていた重りが今となっては上がらない。むしろ完成からは遠ざかりながら、自分とその限界の境目をなぞるだけの作業だ。筋肉はそんな途方も無い試みを手助けしてくれる媒体でしか無い。

インテリとは、セックス以上の喜びを見つけた人種である」という格言があるみたいだ。それに乗っ取れば、やはりトレーニーはインテリであり、マッチョは賢人である。満員電車、目の前でブス二人がいちゃつき出したところでイラつく必要はない。おでこを小突きあっている姿が見えるけれど、そんなことは些細な問題であって、自分の体を巡るものの方が充足しきっていて、それに夢中になっていればいいと分かっている。

なにも得ていないのに、足りなくはないことが分かる。体が栄養を求めているが、不満はない。

おそらく効果としてはストレス発散になるのだろうけれど、その効き方はカラオケやら絵を描いたりするみたいに沸々と沸く感情を燃焼してしまう感じではなくて、筋トレをしたところで、少し疲れて、筋肉が張って、つまるところ自分の体がリアルに感じられるようになるだけ。ただそれだけで自分の中で色々もやもや湧き立っているままの感情を受け入れることが出来る。体の輪郭がわかるだけでその内側に広がっているものが安定するというのは不思議。心と体、というか筋肉、人間の全部という感じだ。マッチョだってやはりミュージックもエコロジーも好きだろう。みんなイヤホンしてトレーニングしてるしね、薄着だし、物持ちもきっといい。

限界だとかというとネガティブだけれど、それは確かな肉体の存在の証明であって、普通に生活しているだけでは実感できないものだと思う。アーティストの亜鶴さんという方が、「五体満足は完全じゃない」という言葉を紹介していたのを思い出した。(この方はガチのトレーニー、ものすごい実践。)体があるだけでは溢れてしまうけれど、そこに確かな実感がある限り、そのままでも良いことがわかるので、自由にでいられるというのが、筋肉と心の間の反応機構であるはずで、筋肉は魔法ではない。もともとそこにある完全を、見つけ出す、作り出すだけの物理。

これを書いている今は、体のいろんなところがバキバキで全くもって自由が効かない体ではあるのだけれど、気分は上々。積もり積もったいろんなことが少しだけ心を苛むけれど、筋肉痛に比べたら屁でもない。当分は筋肉で遊ぼうと思う。ベンチ100kg挙げれる詩人になれると素敵ですね。